2000年以降、私が住む福岡県でも、おおくの演劇やコンテンポラリーダンスの上演を主目的とする公共劇場ができた。
そのおかげで、年に3、4度は福岡県内の自治体が設立した公共劇場が自主制作した演劇公演を観劇できるようになった。
しかし福岡県内の殆どの公共劇場に芸術監督が存在しない。そのため公共劇場が制作した作品に対して芸術的な責任を持つべき人間が誰か、観客や市民から観たら分からないという事態が生じている。
公共劇場の芸術監督について、ここで徒然なるままに述べているのも、最近福岡県内のK劇場が制作した演劇作品があまりにひどかったからである。2週間前に観劇したのだが、観劇中も開演3分で退出すればよかったと思いました。また観劇後、この作品を観た影響で怒りがたまり、気分が悪くなり2週間ほど体調を壊したからである。しかし製作者は「このプロジェクトでは、今旬の演出家の演出を福岡の俳優に経験させたい」と語っていた。
しかし今旬の演出家が書いて演出した演劇作品でも100年たったら遅れた演劇作品になっていたら意味がないのが演劇というジャンルである。アイスキュロスやシェイクスピアは彼らが暮らしていた地域の数百年前の他国との戦争について書いていたが、2500年後または400年後の日本人が読んでも私たちの問題だと感じられる人間の行動と世界の変化が描かれている。チェーホフも100年先の社会は理想的な人間であふれて素晴らしい社会になると「三人姉妹」の中で語っているように、おそらく19世紀後半の人間だけでなく100年後の人間についても考えて戯曲を書いていたのだろう。
K劇場の作品の批評を書きたいと考えているのだが、問題は観劇中にメモをとり忘れたことと。本当につまらない演劇の批評を書くのはなぜダメだったかを論理的に記述するために、演劇論の古典などを再読し、時には正確な引用をしなければならず時間がかかり、さらにダメな舞台の批評に書くのはあまりおもしろくなく、また苦痛という点である。また体を壊しそうなので批評は書くかどうか迷っている。ダメな舞台をみて覚えている点を将来その舞台批評を書くためにメモだけでもしておこうと思う。
ヨーロッパなどの演劇先進国でも商業劇場では芸術監督でなく制作者(プロデューサーにあたるが劇場総監督の方が正しい。劇場総監督が劇場の経営と芸術的成果に責任を持っている制度だから)のみを置いている場合もある。 ヨーロッパでは商業劇場でも芸術性を追求するタイプの劇場は大小劇場を問わず劇場総監督と芸術監督を置いている。
しかし芸術監督という職業が日本の劇場制度では全国的にも確立されていないのが現状である。
おそらく日本で芸術監督制度が確立されてない理由は大きく分けて以下の5つになるだろう:
①日本では俳優と演出家の養成に体系的な思想と方法論が存在しない。
②公共劇場がその存在する共同体のアイデンティティ確立ために演劇制作を行いレパートリーシステムを確立するという概念が弱い。
③公共劇場が制作した演劇作品が世界の市民の公共財にならねばならないという概念があまりない。
④公共劇場が演劇制作を行った後、その稽古の記録や観客が演劇制作の過程を知ることが出来る資料を作り広く世界に公開するという演劇制作の情報公開を公共劇場が行わなければならないという考えが希薄である。
⑤公共劇場が制作した演劇作品を新聞など大手メディアで本格的な批評を行える演劇批評家を地方のメディア内部で育成していない。
かなり長くなりそうなので、またつづきは後で書きます。
そのおかげで、年に3、4度は福岡県内の自治体が設立した公共劇場が自主制作した演劇公演を観劇できるようになった。
しかし福岡県内の殆どの公共劇場に芸術監督が存在しない。そのため公共劇場が制作した作品に対して芸術的な責任を持つべき人間が誰か、観客や市民から観たら分からないという事態が生じている。
公共劇場の芸術監督について、ここで徒然なるままに述べているのも、最近福岡県内のK劇場が制作した演劇作品があまりにひどかったからである。2週間前に観劇したのだが、観劇中も開演3分で退出すればよかったと思いました。また観劇後、この作品を観た影響で怒りがたまり、気分が悪くなり2週間ほど体調を壊したからである。しかし製作者は「このプロジェクトでは、今旬の演出家の演出を福岡の俳優に経験させたい」と語っていた。
しかし今旬の演出家が書いて演出した演劇作品でも100年たったら遅れた演劇作品になっていたら意味がないのが演劇というジャンルである。アイスキュロスやシェイクスピアは彼らが暮らしていた地域の数百年前の他国との戦争について書いていたが、2500年後または400年後の日本人が読んでも私たちの問題だと感じられる人間の行動と世界の変化が描かれている。チェーホフも100年先の社会は理想的な人間であふれて素晴らしい社会になると「三人姉妹」の中で語っているように、おそらく19世紀後半の人間だけでなく100年後の人間についても考えて戯曲を書いていたのだろう。
K劇場の作品の批評を書きたいと考えているのだが、問題は観劇中にメモをとり忘れたことと。本当につまらない演劇の批評を書くのはなぜダメだったかを論理的に記述するために、演劇論の古典などを再読し、時には正確な引用をしなければならず時間がかかり、さらにダメな舞台の批評に書くのはあまりおもしろくなく、また苦痛という点である。また体を壊しそうなので批評は書くかどうか迷っている。ダメな舞台をみて覚えている点を将来その舞台批評を書くためにメモだけでもしておこうと思う。
ヨーロッパなどの演劇先進国でも商業劇場では芸術監督でなく制作者(プロデューサーにあたるが劇場総監督の方が正しい。劇場総監督が劇場の経営と芸術的成果に責任を持っている制度だから)のみを置いている場合もある。 ヨーロッパでは商業劇場でも芸術性を追求するタイプの劇場は大小劇場を問わず劇場総監督と芸術監督を置いている。
しかし芸術監督という職業が日本の劇場制度では全国的にも確立されていないのが現状である。
おそらく日本で芸術監督制度が確立されてない理由は大きく分けて以下の5つになるだろう:
①日本では俳優と演出家の養成に体系的な思想と方法論が存在しない。
②公共劇場がその存在する共同体のアイデンティティ確立ために演劇制作を行いレパートリーシステムを確立するという概念が弱い。
③公共劇場が制作した演劇作品が世界の市民の公共財にならねばならないという概念があまりない。
④公共劇場が演劇制作を行った後、その稽古の記録や観客が演劇制作の過程を知ることが出来る資料を作り広く世界に公開するという演劇制作の情報公開を公共劇場が行わなければならないという考えが希薄である。
⑤公共劇場が制作した演劇作品を新聞など大手メディアで本格的な批評を行える演劇批評家を地方のメディア内部で育成していない。
かなり長くなりそうなので、またつづきは後で書きます。
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